賢治の童話を貫くキーワードは「弱さ」だ

人は「山と里」、「動物世界と人間世界」、「自然と文明」というふうに、世界を、二つの相反する領域からなるものとして見がちである。「人間か、さもなければ自然か」というように、二者択一で考えるとすれ ば、それは問題だ。「自然対人間」という困った二元論から抜け出すにはどうすればいいのだろう?そのための道筋が賢治の文学の中にあるのではないか。


山猫からも葉書が来なくなってしまった。

あの明るく楽しい広場はどこへ消えてしまったのだろう。

(井上ひさし)

あらゆるものの共有地

 さて、賢治の三つの童話を通して人間と動物との関係について考えてきた。他にもたくさんあるので、ぜひ、きみも読んでみてほしい。「オッペルと象」、「セロ弾きのゴーシュ」、「よだかの星」、「雪渡り」、「蜘蛛となめくじと狸」、「土神ときつね」……。

 読んでいくうちに、それらを貫いている一つのキーワードが見えてくるはずだ。それが「弱さ」だ。賢治の物語の多くは登場する人々、動植物や精霊たちの「弱さ」をめぐって展開する。どんな生き物にも、弱さがあり、それが「困難」や「かなしみ」の原因ともなるのだが、結局のところ、それらの弱さがつながり合うようにして、生き物の世界全体としての調和をつくっている。

 だが、問題は人間だ。まるで自分たちだけは例外であるかのように、生き物からなるコミュニティの外側にふんぞり返っている。それを象徴しているのが、「注文の多い料理店」のハンターたち、「氷河鼠の毛皮」のタイチ、「なめとこ山の熊」の商人。彼らは「弱肉強食」を地で行く者たちだ。

 ではその人間たちが、もう一度、世界の住人にふさわしい生き方をとり戻すことはできるのか。そのためにはどうしたらいいのか。そう問いながら、賢治は多くの作品を書いたのだとぼくは思う。

 前に、アマゾン源流地域でぼくが出会ったシャーマンについて話したね。他の動植物や精霊が棲む山や森とのコミュニケーションをとって、人が住む「里」との良好な関係をつくるために活躍する人たちのことをシャーマンと呼ぶのだとしたら、宮沢賢治も、一種のシャーマンだったのかもしれない。

 賢治が死んだ翌年に、同じ東北地方に生まれた作家、井上ひさし(1934?2010)は、賢治の物語を集めた本の「解説」の中で、「たぶん賢治の作品が一つの例外もなく、あのつめくさ(クローバー)の匂いを立ちのぼらせている」ことに注目している。

 きみも四つ葉のクローバーを探したことがあるかもしれないね。ツメクサとはそのクローバーのこと。

 井上によると、そのツメクサが敷きつめた風景こそが、東北の田園らしさを代表するものだった。それは絨毯(じゅうたん)のように、運動場、水田、果樹園、桑畑をとりまき、その先はササやススキからなる野原へと続いていた。その向うはもう山裾の自然林、さらに奥は山。賢治とその同時代人のそんなメンタルマップ(心の地図)の中で、ツメクサのあるところだけが、人間の「領分」、つまり、人間が自由勝手にふるまえる場所だということを人々は十分に承知していたようだ、と井上は言う。一方、山では人間は謙虚にしていなければならない。なぜなら、「そこは動物たちの領分なのだ」から、と。

 井上は続けて、人里と山との中間に広がる空間についてこう言っている。

ではつめくさと山との間に広がる野原や林は誰の縄張りかといえば、それこそ人間と動物とが、樹木や草花など植物の立会いの下に、対等の資格で出会うところである。風や光までも含めたありとあらゆるものの共有地、交歓の場なのである。


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弱虫」でいいんだよ

辻信一

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