第五章 洋子の決断(9) 第六章 消失点(1)

蒔野の告白に対し、洋子は決断を下す。彼女はこんなふうに人を愛するのか。自分の心に正直であろうとする二人の行く末は……。

 しかも洋子は、彼が求めるならば、更に残酷な犠牲でさえ厭わぬような無防備な気色で、まっすぐに立っていた。

 蒔野は、自分のために、まるでその存在そのものを差し出して、ただ待っているかのような彼女の佇まいに心を震わせた。彼女はこんなふうに人を愛するのか—こんなふうに自分を、と。そして、時間の中で、その踏み出した一歩のために立ち竦む彼女を、彼は深く内から押し広げられてゆくような幸福とともに抱擁した。

 あのパリでの再会の翌日、蒔野が既にマドリードに発ってしまってから、洋子は、思わせぶりな態度に終始していた自身のからだから、何食わぬ顔でその誤解を訂正されることとなった。生理が来たのだった。

 こんな見計らったかのようなタイミングも、女の人生では、折々あることとして済ますより他はなかったが、遅配されたからといって、手紙の中身が変わるわけではないように、生理は生理であり、その意味するところは明白だった。

 洋子は、今はもう、自分の心に忠実に従いたいと強く思った。人に決断を促すのは、明るい未来への積極的な夢であるより、遥かにむしろ、何もしないで現状に留まり続けることの不安だった。

 後悔の訪れはまだ先であるはずなのに、既にして彼女の足許は、その冷たい潮に浸され始めていた。そこでただ、目を瞑ってじっとしていることは出来なかった。

 蒔野が言った言葉を、洋子は自分自身の言葉として、幾度となく語り直した。彼を愛さなかった小峰洋子という人間もまた、もうどこにも存在しない非現実なのだと。

 リチャードには、スカイプで婚約の解消を申し入れたが、気が動転したまま、まともな会話にならなかった彼は、翌日、大学を休講にしてニューヨークから彼女の元に飛んできた。

 長い話し合いだった。

 彼のことが嫌いになったわけではなかったので、激昂し、悲嘆し、感傷的になってあれこれ思い出話を語り、冗談を捻り出しながら、酷く取り乱して「どうして?」と繰り返すその姿に、洋子の胸は痛んだ。

 しかし、決心は変わらなかった。何度か涙ぐみそうになったが、その権利があるのは彼の方であり、最後まで堪え通した。

 リチャードは、納得せぬまま、来週また来ると言い残して、一旦ニューヨークに戻った。洋子は空港まで見送らず、彼に会うのも、最後にするつもりだった。

 自宅で独りになると、さすがに呆然となった。罪悪感に浸ることさえどこか醜悪で、縋るように、ただ蒔野のことを考えようとした。リチャードに非はなかった。それでも確かに、彼女にとっても、傷は傷だった。

 蒔野の腕の中で、洋子は、精神的にも肉体的にも、今は彼の望むことの一切を受け容れたいという抑え難い衝動に駆られた。彼の中に満たされないものが何も残らないほどに。—それは、洋子が初めて知る、ほとんど隷属に近いような欲望だった。どんな恋愛の始まりにも、彼女は決して、こんな馬鹿げた思いを抱いたことなどなかった。

 蒔野を愛することは、彼女にとって、そうした幾つかの発見だった。彼に愛されるためならば、自分はツアー先で、ただ時折会うだけの女であっても構わないとさえ、一度は真剣に考えていた。

 なるほど、一つの愛の放棄に、この愛は見合うだけのものでなければならなかった。そのためには、彼が不満であってはならなかった。或いは、完全に彼の思うがままの存在であり得るなら、リチャードへの罪の意識からも解放されるのだろうか? しかし、そんな苦し紛れの期待の裏にさえ、畢竟、彼の才能への屈折した、ほとんど裏切りのような憧憬が潜んでいないとは言えなかった。

 洋子は、この時、淫ら、、 であるということの、何かしら新しい定義に触れているような感じだった。

 常と異なるというだけでなく、どこか本質的に自分を見失い、自らを相手にすっかり明け渡してしまうような喜び。—その深みの底は知れず、むしろ洋子は、今こそ《ヴェニスに死す》症候群の官能の渦中に呑まれつつあるのかもしれなかった。

 二人は、自然と深まり行くことへの躊躇いから、却って長い、いつ尽きるともしれない口づけに浸った。

 ジャリーラの存在は意識にかかっていた。踏み止まるべきで、だからこそ、このままで、互いの存在をより強く受け止めようと、背中に回した両腕に力が込もった。

 それでも時は、彼らの思惑を刻々となし崩しにしていった。二人のからだは、縁から少しずつ、更けゆく夜の一部と化していった。見つめ合い、折々萌す笑みを、熱を帯びた唇で移し合った。ソファに身を預け、しばらく無言で互いの胸の裡を探っていた時だった。突然、ベッドルームで、ジャリーラのアラビア語の叫び声が聞こえ、しばらく苦しそうな呻吟が続いた。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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