何がほしくておれを殺すんだ
「対称性」という言葉で思い出すのは、猟師と動物とのやりとりを描いた賢治の作品「なめとこ山の熊」だ。少し長くなるが、あらすじを書き出したい。
熊とり名人の小十郎は、原生の森をのし歩いては、熊を撃ち、その毛皮と胆のう(それを干した「くまのい」は漢方薬として珍重される)をとって、生計をたてていた。そんな彼に、しかし、なぜか、なめとこ山周辺の熊たちは好感をもっているのだと、語り手(賢治)は言う。そして小十郎の方でも、「もう熊のことばだってわかるような気がした」と。
例えば小十郎は、撃ち殺したばかりの熊のそばに寄ってきてこう言う。
「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ」
そして、本当は他の仕事をしたいのだが、農業も林業もできず、しかたなく、熊とりをしているのだと語りかける。
早春のある日、熊の母子に出会った時のこと。
「まるでその二疋(ひき)の熊のからだから後光(ごこう)が射すように思えてまるで釘付けになったように立ちどまってそっちを見つめていた」
そして、しばらく熊の母子の会話に耳を傾けた後、小十郎は「音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめ」、結局、撃たずにすませる。
語り手は、町に毛皮とくまのいを売りにいく時に小十郎が感じるみじめさについても語る。商人たちは、危険な仕事はしないくせに、猟師の足もとをみて、ひどい安値で買いたたく。
ある時、小十郎が熊をもう少しで撃つところで、その熊が両手をあげて叫ぶ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
そう言われてみると、彼には熊を殺すだけのしっかりとした理由がないように思える。食べ物を買う金のために熊をとるのだが、その金がなくても、山にあるどんぐりなどを食って生きていく方がいいような気もする、そしてそれでたとえ死ぬことになってもいいような気がする、と彼は熊にうちあける。
すると熊は、自分も死ぬのはかまわないのだが、少し残した仕事もあるので、もう二年ばかり待ってくれないか、と小十郎に頼む。
それからちょうど二年目、自分の家の前で、あの時の熊が倒れているのを見て、小十郎は「思わず拝むようにした」
最後に、小十郎は熊撃ちの最中に死ぬ。意識が遠のく中で、彼は熊の言葉を聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった。」
・・・・・・そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」
それから三日目の晩のこと、凍りついた小十郎の死体のそばで、熊たちが雪の上に輪になり、ひれ伏して祈っていた。
小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。
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