第五章 洋子の決断(8)

洋子はリルケの詩の朗読をはじめる。それは、音楽のように美しい響きを持ち...
更に滞りなく朗読をするために、洋子は英訳本を持ってくるが、蒔野はそんな洋子にある提案をする……。

 蒔野は、その戦慄的な一節を、雄々しく悲壮に歌い上げるのではなく、やさしく包み込むようにして—しかし格調高さは失うことなく—読んだ洋子の声に聴き入った。ジャリーラのために、そういう調子になったのかもしれない。深いまろやかな響きで、彼女がいつも、少年のようにあどけない小皺を寄せる鼻梁は、中性的というより、むしろ天使的な、両性具有的な美しさにすっと冴えて額へと抜けた。

 ジャリーラは、その難解な詩句の意味を理解しようと考えながら、少し戸惑っている様子だった。蒔野は、

「ドイツ語の原文で読むとどうなるの?」

 とリクエストした。

「ドイツ語は読み書きできるけど、詩の朗読はとても、……」

 洋子は、控え目に首を傾げて本文に目を落とすと、一呼吸置いてから、「Wer, wenn ich schriee,.....」と、哀歌を特徴づけるその韻律を、十分音楽的と感じられるほど流麗に辿った。

 蒔野もジャリーラも、その立派なことに感心して、読み終えると覚えず拍手した。洋子は首を振って、

「上手じゃないの、これは本当に。—わたしじゃなくて、蒔野さんの演奏を聴くはずだったんでしょう?」

 と彼に水を向けた。蒔野は、戯けたように、忘れていた、という顔をすると、ジャリーラの方を向いて言った。

「第五の哀歌は、広場に集まった、たくさんの大道芸人たちを見物している詩なんだよ。俺は上手く説明できないけど、他の歌とは大分、趣が違う。思索がぐーっと内に深まっていく他のとは違って、目が外に向いてるから。……広場とその大道芸人たちは、この世界の象徴と取っていいのかな? 誰ともつかない不満足な意志のために、芸を続けてる彼ら。—人間は、生きること自体を懸命に、滑稽に人目に曝し続ける。……映画では、戦争で破壊し尽くされた町並みを背景に、この第五の哀歌の最後の部分が朗読されて、美しいギターのテーマ曲で終わるんだよ。何遍見ても胸が締め付けられる。」

 ジャリーラは、先ほどの冒頭よりは、まだどうにかイメージできるという風に頷いて聴いていた。

 洋子は、もう一度立ち上がって、今度は滞りなく朗読するために、英訳本を持ってきた。そして、第五の哀歌のページを開くと、ジャリーラに目配せした。

 蒔野は、

「じゃあ、洋子さんが朗読したら、続けてテーマ曲を弾くよ。ジャリーラのために、映画のラストを再現しよう。」

 とギターを調律しながら言った。洋子は、そのアイディアに同意して、

「わたし、これからはプロフィールに、『二〇〇七年六月には蒔野聡史と共演。』って書くことにするわ。」

 と白い歯を見せた。

 ジャリーラが拍手すると、洋子は、「広場の大道芸人たちをあらかた見物し終えてから、最後にこう続くの。」と説明し、軽く深呼吸してから、その短い件を朗読した。

天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?

そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、得も言わぬ敷物の上で、その胸の躍りの思いきった、仰ぎ見るような形姿を、その法悦の塔を、疾く足場を失い、ただ互いを宙で支え合うしかない梯子を、戦きつつ、披露するのではないでしょうか?—彼らは、きっともう失敗しないでしょう、いつしか二人を取り囲み、無言のまま見つめていた、数多の死者たちを前にして。

その時こそ、死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか?

再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて。

 蒔野は、文字を追う洋子のその横顔を見つめた。想像力が、ほのかにその眉間を強ばらせ、瞳の動きに上瞼の睫が繊細に揺れた。

 そこに、第二次大戦後の荒廃したクロアチアの大地と、映画の主人公の乾いた眼差し、そして、ようやく再会が叶ったセルヴィア人の少女の気丈な佇まいが重なった。詩に歌われた光景が想像され、投げ銭の古びた音が、次々と耳の底に響いた。

 蒔野は、映画の記憶に忠実な間を置いて、その静かなアルペジオの小曲を弾き始めた。

 今日のマチネの終わりに、洋子のために弾くつもりの曲だった。しかし、むしろ最初から、彼女と一緒に、このイラクから逃れてきた若い命のために演奏することになっていたのかもしれない。

 今日の一日のすべてが、そのための準備だったのではあるまいか。

 「誰の、誰の歓心を買おうとしてでしょう、決して満足することのない意志に、その身を絞らせるとは。」という《ドゥイノの哀歌》の詩句が脳裏を過ぎった。

 美しい一夜が終わろうとしていた。あとに一体、何があるというのだろう?……

 演奏を終えて、消え入ろうとする余韻を惜しみつつ目を開けると、ジャリーラは両手で顔を覆い、声もなく泣いていた。

 洋子は、本を閉じて彼女の傍らに座り直すと、いよいよ堪えきれずに嗚咽する彼女を抱き締めた。無力感に耐えているかのように、洋子はやさしかった。

 蒔野は自分が、イラク人の女性の涙を、初めて間近に見ているのを意識した。頬は浸されたように濡れ、痙攣的に震え続けている。自分の中に、その頬の無数の連なりを感受できる場所があるだろうかと、彼は無意識に探した。同じように涙を滲ませる頬が、イラクには今も無数にあるはずだった。もう涙にさえ濡れることなく朽ちてゆく頬も、やはり無数に。—そうして結局は、ただ、彼女から溢れ出すものに留まっているより他はなかった。

     *

 洋子は、ジャリーラをベッドルームに連れて行って、眠りに着くまでしばらく寄り添っていた。

 元々は、古い建物の隣り合う二戸の壁をぶち抜いて、一戸の二間としている特殊な構造で、リヴィングとベッドルームとの間はドアのない短い廊下で結ばれている。

 蒔野と洋子とは、姿の見えないお互いの気配を、その廊下を通じて感じ取っていた。

 やがて、ベッドルームの明かりを消して洋子が戻ると、蒔野は、書棚の前に立って、中を覗いてみていたらしい井上光晴の『明日 一九四五年八月八日・長崎』を元に戻しているところだった。彼は、その本については何も言わず、チンザノを飲んでいたグラスを棚の端に置いた。

 洋子も今は敢えて、それに触れようとはしなかった。

 こちらも照明が落ちていて、ソファの小脇のスタンド・ランプだけが点いている。

「ごめんなさい、遅くなって。」

「全然。大丈夫、彼女?」

「眠ってる。興奮してたけど、さすがに疲れてるから。—コーヒーでも淹れ直す?」

「ううん。ありがとう。」

 洋子は、空のグラスに腕を伸ばして、キッチンに下げるつもりだった。しかし、彼の目の前で不意に兆した沈黙が、彼女をその場に押し止めた。急に心拍が速くなった。彼を見上げると、ベッドルームで反芻していたことを、勇を鼓して口にした。

「蒔野さんがマドリードにいた間に、彼と話をしたの。」

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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