日本建築論

原爆モニュメントは「民衆の願いで成立する」:第7章(1)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。

○秋田の大きな屋根

 1950年代の建築ジャーナリズムにおいて伝統論争が誌面をにぎわせ、そのハイライトとして洗練された弥生的なものに対して、荒々しい縄文的な概念が白井晟一によって提出された。また、これに先行してアーティストの岡本太郎は、国立博物館で縄文土器を「発見」し、民衆のエネルギーと結びつけながら、独自の伝統論を展開した。こうした流れについては、前回までの連載でとりあげた。そこで今回は、白井の活動を見ていこう。

 多くの弟子を輩出した丹下健三や伊東豊雄のように、師弟関係、あるいは東工大などスクールの系譜が強い日本の建築界において、白井は誰かに師事することなく、そもそも特異な位置をしめていた。また狭小住宅やメタボリズムによる壮大な都市プロジェクトなど、時代の流行を反映した作品も少ない。孤高の建築家というべき存在である。日本の大学で建築を学ばず、若い時にドイツやフランスに海外遊学した経験も大きいだろう。

 戦後の1950年代、白井は秋田県や群馬県など、地方の仕事を多く手がけていた。秋田南部の秋の宮役場(1951)は、緩い勾配の大屋根と、ファサードの列柱が印象的な建築である。これは 雪国を意識した深い軒やテラスをもち、民衆の作家として評判となり、秋田県の仕事が続くことになった。このデザインは村の民家に着想を得たという。なるほど、モダニズムが地域性の象徴である屋根を嫌うのに対し、これはシンボリックな大屋根だ。白井は、以下のように記している。「秋田の人々は雪をおそれている。しかし雪とたたかう努力もまたわれわれの想像をこえている。・・・もし自分の仕事を通じてこの地方の人々に明るい冬を過させ、わずかな燃料であたたかに仕事をしてもらえることができるとすれば都会の大きな規模の建物をつくるために働くよりはるかにたのしいことに違いないと思うようになった」(「秋の宮村役場」1952年/『無窓』晶文社、2010年)。

 当時の他の作品でも三角屋根がよく使われていた。例えば、長野県の清澤洌山荘(1941)と嶋中山荘(1941)、三里塚農場計画(1946)、土筆居(1952)、善照寺(1958)、そして秋田の浮雲(1952)、大館木材会館(1953)、雄勝町役場(1956)などである。ただし、彼は帝冠様式のような露骨な日本趣味のデザインには批判的だった。彼はこう述べている。大東亜戦争の頃、「正念を失った国粋思想との不倫な聯繋によって空前の暗黒時代を招いた」のであり、「髷をのせたビルディングが東京はもちろん日本の大きな都市に簇出いたしました。敗戦はこのような建築的スキャンダルの掃除に役立ったことになります」(「華道と建築 日本建築の伝統」1952年/前掲書)。また伝統建築における屋根の美しさを認めつつ、その形態は装飾ではなく、雨や日射しなど、独特な風土と自然が導いたものだという。

 確かに、白井の建築は、瓦屋根をのせたものではなく、抽象的な傾斜屋根である。なお、秋田の仕事を彼はこう回想していた。「たどたどしい表現のうちに日本建築のさわやかな伝統を愛惜するほのかな情緒をつたえ得るものありとするならば、それはながいあいだわがままな私をかわらぬ友情でむかえてくれた秋田の人々へのおくりものが誤らなかったことと自らなぐさめる次第である」(「おもいで」1954年/前掲書)。


○ 民族の表象を超えた「伝統拡大」へ

 岡本の著作『日本再発見—芸術風土記』(新潮社、1958年)も、秋田から始まり、京都が中心ではない伝統論を記していたが、白井の軌跡も似ていよう。彼は群馬県前橋市の書店、煥乎堂(1954)を手がけ、地方都市の書店を「民衆の図書館」と呼んだ。また群馬県の松井田町役場(1956)は、正面の下部が湾曲しながら、それを突き破る列柱が支えるのは緩い勾配の大きな屋根である。これは古典主義建築のペディメントにも似ており、それゆえ「畑のパルテノン」と記された。民衆を意識しながらも、日本だけで完結する様式的な伝統ではない。地域を超えて使われる三角屋根という普遍的なかたちを通じて、世界的な視野を意識した造形である。そうした意味では、後にインターナショナル・ヴァナキュラーと呼ばれた藤森照信の見たことがありそうで、どこにもない建築と重なるかもしれない。松井田町役場のテラスを突き刺す柱の存在も、藤森的である。

 白井は、戦後の都会はめまぐるしく建設が進むが、地方、とくに東北は隔世の感があると述べて、以下のように記した。「都会の人々のためにはできるだけ素朴で郷土的な趣をもった建物が望まれるし、地元の人々にはせめて身近に都会的なものが欲しいに違いない。もともとわたしたちは都会から出て行くものだし、仕事の意義としては当然ロオカルな、味わいのある簡素な様式でやりたいのだが、これは地元の人々の期待には沿いにくい。結論は矛盾する両方の要求に応えられるものをどのようにつくるかということになる」(「地方の建築」1953年/前掲書)。すなわち、モダニズム全盛の時代において、地域主義の建築における問題がすでに意識されていた。そして両方を満たすと同時にどちらでもない建築が導かれた。東京や海外のメディアに対して、日本的なモダニズムを提示するのとは異なるデザインの態度は、おそらく地方の仕事を通じて育んだものだろう。

 白井の伝統観をよく示すのが、国立劇場のコンペをめぐる論考「伝統の新しい危険」(1958年)である(前掲書)。まず彼の現状認識はこうだ。「日本では今もつてパタアンとしての桂離宮や竜安寺石庭の復習などが「伝統追求」とされたり、民族の潜在力である「縄文的なるもの」がよろめいて、輸入のアブストラクトや怪奇なオブジェが「伝統を克服する」ぞという勢いである」。

 一方、彼は伝統を通じて世界を視野に入れていた。「われわれは、今まで民族主義の基盤に立つてはっきり世界に語りかけ表現する建築をもたなかった。国民文化の表徴が平安朝や桃山の復元、変形であったり、あるいは無条件信仰のようなヨオロッパ的本店依存のまね事に終わるようなことになっては、それこそ創造の進歩にさからい、せっかくの機会も人間の土を奪う「建設」に過ぎなくしてしまう。われわれが欲しいものは最高の借り物でなく、最低の独創であるべきだが、日本の手本があろうと、ヨオロッパの手本があろうと、他力本願で「創造」はできない。この土の上で、自主の生活と思想の中から世界言語を発見するよりほかない」。そして彼が高く評価したシドニー・オペラハウスのコンペにおける最優秀案のように、民族の表象を超えて、「世界共存の思想の通路となる創造」であるべきだという。すなわち、「一歩進んで世界史的な鍛錬の中で「伝統拡大」という目標をもつことだ」。


○ 2つの原爆モニュメント

 白井の代表作のひとつである原爆堂は、モニュメンタリティを特集し、村野藤吾の世界平和記念聖堂や谷口吉郎の戦没者慰霊堂などを紹介した『新建築』1955年4月号に掲載された。編集部の付記によれば、1954年3月ビキニの水爆実験による死の灰が降るなかで計画案がすすめられた。そして900万以上の観衆を動員した丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」に関する「ニュースに発想を得て、それとは全く独立に、この計画案に民衆の平和に対する希念を表現しようとしたのである」。ゆえに、敷地もコストも美術も何も決まっていない。無記名だが、おそらく川添登が書いたと思われる文章は、こう記している。

 「原子爆弾は広島を一瞬にして荒野と化し、水爆はそれを徹底させるに違いない。原爆に対する平和の闘いは、そのような荒野のなかからたくましくたち上るものでなくてはならない。しかも原爆をうみだした科学の猛威に対し、人間の尊厳を回復すべきであろう」。古代エジプトに発想を求めつつも、円筒と直方体の交差するキャンチレバーが現代性をあらわす。そしてエントランスのパヴィリオンから地下に降り、池の底を通って、螺旋階段を登って陳列室に入る。再生を強烈にイメージさせるシークエンスだ。なお、ドイツ・ベルリンにあるダニエル・リベスキンドのユダヤ博物館でも、地下に降りてから登る導入が演出されている。

 だが、結局、白井の原爆堂は完成しなかった。基本的に新築物件を掲載する『新建築』にとって、実現の目処がはっきりしていない計画案をとりあげるのは異例のことだろう。ただし、敗戦からちょうど10年、広島に丹下健三の平和記念資料館が完成するタイミングである。これはやはり近い時期に『新建築』で紹介されていた。編集者の川添登が、丹下による軸線を介して原爆ドームと関わりをもつリアルな建築に対して、白井のアンビルドを対峙させたのだろう。

 川添は、広島のプロジェクトを紹介した『新建築』1955年1月号でこう論じた(「丹下健三の日本的性格」)。丹下は「廃墟のなかから力強いものとして伊勢を想起し」、正倉院や寝殿造も参照しつつ、さらにモダニズムに学びながら、ジャポニカ調に陥らずに、デザインをまとめあげた、と。なるほど、ル・コルビュジエのピロティ形式や、細かい木割りを連想させるルーバーなどが読みとれるだろう。興味深いのは、以下の指摘である。「戦後の混乱のなかで丹下健三はこの伊勢との格闘を余儀なくされた。伊勢は民族的伝統のもっとも古く大きなものであると同時に、天皇制の表徴でもあり、彼にとっては戦時中の作品の生みの親でもあった。彼はそれに抵抗し、しかもそのなかに含まれている民族の意志を表現したいと思った」。

平和祈念資料館[丹下健三]

 爆心地に近い敷地に出現した広島平和記念資料館は、戦後日本の復興のシンボルというべき建築だが、当時は伝統や民族といったキーワードから理解されていたのである。そして川添はこう位置づけた。「伊勢のもつ矛盾と広島のもつ矛盾とがとけあい、荒野のなかからたくましく立上がる巨大なピロティと、ルーバーにみられる素朴な近代さ、しかもそれが未完成にのこされているため、仕上げの肌の荒荒しさと建物全体の敷地とがかもし出す荒涼としたなかに、あたかも原爆時代が作り出した20世紀の神話であるかのように、不思議な魅力をもって私たちにせまってくる」。

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五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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