第五章 洋子の決断(7)

蒔野は洋子とジャリーラの前で演奏を披露する。3人は、音楽を通じ、一緒に過ごす時間に力を宿していく。蒔野はレコーディングをしていた《この素晴らしき世界~Beauriful American songs》を思い出し……。

 顔を上げると、果たしてジャリーラは、満面に笑みを湛えていた。感激したように拍手をして、動悸を押さえるように胸に手を当てた。洋子も、うれしそうに彼女を見守っていた。

「すごくきれいな曲ですね。何ていう曲なんですか?」

 蒔野は、洋子に紙とペンを借りてタイトルを書き、ジュリアン・ブリームのレコードを勧めておいた。

「蒔野さんは、レコーディングしてるの、この曲?」

 と、洋子が尋ねた。

「してるよ、大分前だけど。」

「わたし、そのCD、持ってないわね。—ジャリーラ、今度、一緒に買いに行かない? フナックっていう大きなCDのお店があるから。見て回ったら、きっと楽しいわよ。」

 それから、蒔野はふと、今年の初めにレコーディングしかけたまま、ほったらかしていた例の《この素晴らしき世界~Beauriful American songs》を思い出して、ルイ・アームストロングの〈この素晴らしき世界〉とロバータ・フラックの〈やさしく歌って〉をワンコーラスだけ続け様に演奏した。

 ジャリーラも洋子も、「ああ、この曲!」と、また一段と表情を明るくした。蒔野は、その楽しそうな様子を見て、すっかり嫌気が差して止めてしまったレコーディングだったが、やっぱり完成させるべきだろうかと、少し思い直した。

 快活になってゆくジャリーラの様子に、蒔野は、自分が携わってきた音楽というものの力を再認識させられた。

 こういう境遇でも、人は、音楽を楽しむことが出来るのだった。それは、人間に備わった、何と美しい能力だろうか。そして、ギターという楽器の良さは、まさしく、この親密さだった。こんなに近くで、こんなにやさしく歌うことが出来る。楽器自体が、自分の体温であたたまってゆく。しかしそこには、聴いている人間の温もりまで混ざり込んでいるような気がした。

 それから、もっと彼女に楽しんでもらいたくて、蒔野は、ブリトニー・スピアーズの《トキシック》のイントロを適当にアレンジして弾いた。彼自身は知らない曲だったが、洋子のメールを読んで、ネットで動画をチェックし、遊び半分に曲をなぞっていた。

 ジャリーラは、たちまちからだを揺すって踊り出すと、PVのセクシーなCAとインサートされる半裸の蠱惑的なイメージとを、歌真似をしながら、忙しく一人でこなした。そのクネクネした身のよじり方や卑猥な舌の動かし方など、何もかもがおかしくて、蒔野は演奏しながら笑いが止まらなかった。もう何度となく見ているはずの洋子も、手拍子をしながら、終いにはお腹を押さえて、鼻っ柱に小皺を寄せて笑った。

 途中でここまでと、ジャリーラが照れ笑いを浮かべて曖昧に止めるまで、そうして三人で盛り上がった。最後にギターを掻き鳴らして終わると、三人で拍手し、握手し合った。ジャリーラは、いつかブリトニーのコンサートに行くのが夢と、上気しながら語った。

 彼女はそれから、蒔野にどうしても弾いてほしい曲がある、とリクエストした。

「弾けるかな? 何?」

「《幸福の硬貨》のテーマ曲、弾いてもらえますか? イラクでいつも、ヨーコさんが聴いてました。」

「ああ、……いいよ。今日のマチネの終わりに弾こうと思ってて、弾きそびれてしまったから。」

 蒔野は、冗談めかしてそう言うと、洋子に目配せをしたが、何を伝えたかったのかは、自分でも曖昧だった。恐らく、この曲は、あなたのために演奏するつもりだったということだった。

「《幸福の硬貨》は、どんな映画ですか?」

「あ、見たことない? じゃあ、それもフナックで買って来ないとね。名作だよ。」

「わたしが持ってるから。」

 と、洋子は二人を見ながら言った。

 ジャリーラは、ソリッチに関することを洋子に訊いて良いのかどうかわからず、これまでずっと遠慮していたが、この日は、蒔野との会話の中で何度かその名前が出て、初めて映画についても尋ねてみたのだった。

 洋子は、ジャリーラに映画の内容を簡単に説明した。

 第二次大戦時、ナチスの傀儡政権を樹立したクロアチアのファシズム政党ウスタシャは、「純粋なクロアチア人」による国家を標榜し、ヒトラーを真似た人種政策を行って強制収容所を作り、国内のセルヴィア人、ユダヤ人、ジプシー、更にはウスタシャに反対するクロアチア人を大量に虐殺している。

 主人公であるリルケを愛する若いクロアチア人の詩人は、思いを寄せるセルヴィア人の少女とその家族を匿いながら、ファシズム政権ウスタシャと戦うパルチザンに参加する。他方、主人公とかつて幼馴染みだったウスタシャの将校もまた、秘かに彼女に思いを寄せ、主人公の手引きで故郷を脱出しようとする彼女を逮捕してしまう。

 物語は三人の複雑な愛憎を描きながら、パルチザンの勝利を経て、第二次大戦後まで続く。

 《ダルマチアの朝日》が、実存の孤独の極致とも言うべき透徹したニヒリズムの詩であったのに対して、《幸福の硬貨》には、壊滅的な世界の中で傷だらけになりながらも潰えない愛への深い慈しみがあった。

「どうしてタイトルが、《幸福の硬貨》なんですか?」

「主人公が愛唱するリルケの《ドゥイノの哀歌》に、その言葉が出てくるのよ。—全部で十あるうちの五番目の哀歌。」

 洋子は、ジャリーラが実は、リルケをよく知らないらしいことを察して、彼が二十世紀のドイツ語の詩人としては最高峰の存在であることを、極簡単に説明した。

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