人間は他の生きものよりも「上」なのか??

人間だけが動物や他の生きものや自然に対して働きかける側だというのは傲慢な考え方ではないだろうか? 人間だけが特別なのではなく、生きものや自然の中のひとつの存在だ。人間も生きものの世界に本来あるべき“法”に背かないように生きるようにする、ということが大切なのではないだろうか。
狩猟社会をはじめとする多くの伝統社会が、神話や伝説や昔話を通じて伝えてきたメッセージを見てみよう。

……どんなこどもでも、……あらゆる魚、

あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、

むかしからのおたがいのきょうだいなのだから… …

(宮沢賢治「手紙四」)

注文の多い料理店

 山奥で道に迷い途方にくれたハンターたちは、そこに現れた「西洋料理店 山猫軒」という看板のある家に入る。「注文の多い料理店ですからそこはご承知ください」という注意書きを、二人は、はやっている店なので注文が多く、料理が出てくるまで時間がかかる、ということだと思いこむ。次から次に現れる扉にある指示に一つずつ従っていくうちに、二人はやがて、最後の、「からだ中に、壷の中の塩をたくさんよくもみ込んでください」というのを読んで、ようやく、「どうもおかしいぜ」と気づき始める。そして、注意書きはすべて二人を料理して食べるための下準備であり、そのために山猫たちがつけた「注文」だったのだ、と知る。

 あまりの恐ろしさにガタガタと震え、泣き出した二人の顔は紙くずみたいにしわくちゃに。

 結局、二人はあわやというところで猟犬や本物の猟師に命を助けられて、東京に帰る。しかし一度しわだらけになった顔は、もうそれっきり元には戻らなかった、というお話。

 何度読んでも、ゾクッとさせられる。「西洋料理店」とは、「客に西洋料理を食べさせる店」ではなく、「客を西洋料理にして食べる店」だったわけだ。その意味では、「西洋料理店」という看板に偽りがあったわけではないし、「注文が多い」というただし書きにしても、それ自体は嘘ではなかった。

 二人の解釈が間違っていたのだが、たぶん他の人だって同じように考えただろう。そこが怖いところだ。狩猟と言えば、人間が動物を殺すことであり、料理と言えば人間が他の生き物を料理することであり、注文と言えば、人間が自然界に対してつけるものだと、ぼくたちは考える。そして、もしかしたら、その逆がありうるかもしれない、と想像してみることはまずない。

 人間→動物、人間→人間以外の生き物、人間→自然界。こんなふうに、いつだって、矢印は人間から他のものへと、一方に向いている。働きかける側(主体)はいつも人間で、相手はいつも働きかけを受ける側(客体)だ。矢印が逆を向く可能性に、ぼくたちがなかなか気づかないとすれば、それはなぜなのだろう?

 それは、「人間」と「他のもの」の間に、暗黙のうちに上下関係が想定されているからだろう。矢印が上から下へと向いているのは、水が上から下へと流れるのと同じように、当たりまえのことだ、とぼくたちは思いこんでいるようだ。

きさまらのしたことはもっともだ

 狩猟に関する賢治の童話に、「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」がある。

 厚い毛皮の防寒具をまとった乗客たちが、イーハトヴ発「最大急行ベーリング行」で旅行中、仮面やマフラーで素顔をかくした白熊などの野生動物たちの襲撃を受ける、という物語だ。

 襲撃者たちの狙いは乗客の一人、大富豪のタイチ。彼はふだんの冬の服装の上に、ラッコの毛皮を裏地にした内外套、ビーバーの毛皮の中外套、表も裏も黒キツネの毛皮でできた外外套などを着込み、おまけに上着は、四百五十匹分の氷河鼠の首の部分の毛皮だけでつくられている。今回列車に乗ったのは、「黒狐の毛皮九百枚を持って来てみせる」という賭けをしてしまったからだという。自分の富をひけらかし、酒を飲んで他の乗客にからむタイチのまるで「馬鹿げた大きな子供の酔いどれ」みたいな態度に、みんな、腹をたてたり、呆れたりしていたのだった。

 告発を受けたタイチが襲撃者によって外へとまさに連れ出されようとする時、乗客の船乗りらしい青年が襲撃者の一人からピストルを奪い、逆に人質にとって、その仲間たちにこう叫ぶ。

おい、熊ども。きさまらのしたことはもっともだ。けれどもなおれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるしてくれ。

 最後はあっけない。タイチと人質は解放され、襲撃者たちはみな降りて、列車はまた動き出す。「今度はゆるしてくれ」という船乗りの青年の要求があっさり受け入れられたのは、なぜか。それは青年の言葉が、相手にとって説得性をもっていたからだろう。このことについて考えてみよう。

 作者の賢治は、まず青年の言葉を通じて、「きさまらのしたことはもっともだ」と、襲撃者たちの動機を肯定してみせる。だが同時に、人間が毛皮をとるのは、熊が魚をとって食べるのと同じように、生きものとして「仕方ない」ことだと言う。その上で青年は、「あんまり無法なこと」をこれからはしないようにすると言う。ある程度はしかたがないが、あまりひどいことはつつしむ、というわけだ。それは青年が自分のことを言っているようでもあり、タイチの代わりに言っているようでもある。またそれは、人間を代表して言っているようにも聞こえる。

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弱虫」でいいんだよ

辻信一

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