遅くなって申し訳ない。6月はあれやこれやと珍しく余裕がありませんで。それと、前回の続きで記憶術とか錬金術とか薔薇十字とかカバラとか、これまで本棚にあっても読んでなかった本を片づけておりまして、あまりふつうのまともな本に手がまわりませんで……。
その中で読んだまともな本として、まずジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』(東洋経済新報社)。帯に「脳科学との融合でたどりついた、衝撃の真実!」なる惹句があるので、なんかすごい衝撃的なことが書いてあるのかと思ったんだが……そんな大それた話は書いていない。でも、中身は重要。要するに、就学前の教育投資がものすごく効くということ。それを、二つの対照実験の結果からヘックマンが述べている。就学前の児童に対して、放課後に先生が家庭訪問して追加の指導をした場合としない場合を比べ、しかもその子たちのその後の出来を、40年にわたって追跡したというのがこの実験だ。
すると、おもしろいことがわかる。最初は試験で測れる、いわゆる学力に差が出るんだけれど、これはその後、だんだん差が縮まってしまう。だけれど、それよりも非認知的な能力——忍耐力とかやる気とか感情を抑える能力とか——のほうが重要で、これが後々まで尾を引き、人生で成功するかどうかを大きく左右してしまうんだと。そして脳の発達を見ても、幼い頃にふれあいや刺激を与えないと脳の成長が遅れることが生理学的に示されている。ここからヘックマンは、就学前の5歳までの非認知的な能力面での指導はとても重要ですさまじい成果をもたらすから、特に貧困世帯に対してこれを公的に実施しろ、と主張する。
たぶん、これを読んで衝撃的だと思う人はそんなにいないんじゃないか。しごくもっともな話だと思う。本書は、これを述べた短い(40ページほどの)論説に対し、各界の識者による反論やコメントがあり、それに対するヘックマンの再反論が掲載される構成になっている。ただ、正直いって各界の識者のコメントは相当部分が揚げ足取りに終始していて、あまり有益でないように思う。だから再反論もあまりおもしろくない。
そして有益な部分が、第1部の40ページほどしかないので、そこの記述不足が非常にもどかしい。たとえば非認知的な能力のほうが重要だというんだが、それってどうやって測ってるの? またその二つの実験では、放課後に先生が家庭訪問して指導したり親にトレーニングとかをしたそうなんだけれど、その中身はなんだか自主性を重視した遊びをさせた、というくらいしかわからない。具体的にどういうことをやっているの? それがイメージしにくいので、「幼児教育」とか「就学前指導」とかいうのがきわめて抽象的で、結局何をすればいいのかもピンとこないのだ。
また、翻訳もまちがってはいないけど全体に愚直で、英語の慣用表現をそのまま訳したせいで主張がわかりにくいところが散見される。たとえばこんなの。
ネイティブアメリカンの居住区がカジノの開設でにわかに経済的にゆたかになった事例は、子供が置かれた環境を測るための従来の目安が不確かであることを裏づけている。この研究によれば、子供たちの破壊的行動の基準値がかなり向上した。介入による有益効果は家族内の変化によってもたらされた。(p.28)
「破壊的行動の基準値がかなり向上した」というのはどういう意味? 基準が厳しくなって、破壊的行動が減ったということ? それとも基準値が上がったので、これまでは破壊的だとされていた行動も平気でやるようになったということ? この後の記述から見てどうも前者らしいんだけど、この翻訳だとそれが明確にわからない。
あるいはこんなところ。
複雑なスキルを分割することは、教育に悲惨な結果をもたらしうる。たとえば、子供のためのプログラムはソフトスキルに重点をおき、認知的な内容を最小限にするだろう。思春期の子供や成人のためのプログラムは、つまらない作業や訓練を中心に構築されるだろう。(p.50)
えーと、なんで子供向けには認知的な内容を最小限にするんですか? なぜ大人向けはつまらない作業ばっかになるんですか? ここの文章はおそらく、幼少時の総合的な学習という複雑なスキルを、たとえばヘックマンの区別に対応する形で、学力中心のものと非認知中心のものという具合に分割して考えるようになったら(ちなみにヘックマンはそんなことをしろとは言っていない。この引用は、ある有識者の「反論」の一部)、「たとえば」以下のような現象が起こりかねない、そういう方向に向かう可能性がある、という内容なんだろう。たぶん原文にはそのニュアンスを示すために、 may とか could とかが使われていたはず。使われてなかったとしても、このままでは意味が通らないから、ぼくは翻訳で補うべきだと思う。
経済学者の大竹文雄が解説を書いていて、ヘックマンの業績とかについてはわかるし、また日本での貧困と教育の関係についての整理とかもありがたい。でも上で挙げた具体的な指導の中身とか、非認知能力としてどんなやり方で何を見ているかとか、この話に関心を持つ人が抱くであろう疑問については説明してくれていない。この分野の関係者には常識なのかもしれないけれど、一般の読者に対してはちょっと不親切だ。重要な内容なだけに、惜しいな。大竹は、わかりやすい一般向けの文章も上手いだけに、あと一歩頑張ってほしかったところ。ともあれ、少なくとも就学前の教育がいかに重要かについては、十分にわかるはず。
ある意味でこれを補う本が、ウォルター・ミシェル『マシュマロ・テスト』(早川書房)だ。このテスト自体はご存じかもしれない。幼い子供の目の前にマシュマロを1個置いて、「これを食べずに5分我慢できたら、2個あげるよ」と言って部屋を離れる。さて、子供は我慢できるだろうか? 多くの子はできない。目先の誘惑に負けてしまう。でも、様々な手を使って我慢できる子もいる。そしてその子たちを追跡してみると、我慢できた子はその後もいろいろな場面での自制心が発達し、成績も高く、成功する確率も高いという。
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