第五章 洋子の決断(6)

蒔野を優しくみつめる洋子の瞳。彼女の瞳の奥にある答えに考えを巡らす蒔野。ジャリーラと三人の空間を音楽が繋ぐ……。

「コンサートには、本当に行きたかったんだけど、きっと、わかってくれると思って。」

「もちろん。人の命が懸かってるんだから。……まぁ、演奏もいい出来じゃなかったし、聴き逃して損はしてないよ。」

 洋子は、両目を僅かに見開いて、苦笑する彼を見つめた。そして、躊躇いがちに、

「邪魔してないかしら、わたし。あなたの音楽活動を?」

 と尋ねた。

「それは、全然関係ないよ。まったく。—俺自身の問題だから。」

 蒔野は、言下に否定すると、あとの間を持て余して軽く両手を上げた。そして、日本語のやりとりがわからず、ぼんやりとソファに座っているジャリーラに目を遣った。ブリトニー・スピアーズのモノマネが得意な陽気な女の子と聞いていたが、どこかまだ放心の態だった。

 洋子の白壁の部屋は、観葉植物の緑で溢れており、バグダッドにいる間は、知人の家で鉢を預かってもらっていたらしかった。天井には不揃いに加工された年代物の梁が剥き出しになっていて、そこからシャンデリアが下がっている。壁の一面はすべて本で埋まっていて、フランス語のタイトルが多かったが、四分の一ほどは日本語で、古い、懐かしい背表紙も少なくなかった。

 ガラスの食卓には、ジャリーラと二人で買い物に行き、準備したというタジン料理が並んだ。

「料理もうまいんだね。」

 皿を並べるのを手伝いながら、蒔野が言うと、

「まだ食べてないじゃない!?」

 と洋子は笑った。

「いや、そうだけど、おいしいに決まってる見た目だよ。」

「どうかしら? このお鍋のせいよ。一目惚れして、マラケシュで買って、持って帰ってきたの。重いのに。でも、便利よ、色んな料理に使えるし。」

「実は俺も持ってるんだよ。もっと小さい、こんなきれいなのじゃないけど、パリのデパートで買って。一回も使ってないな、そう言えば。……」

「料理するの?」

「そりゃ、この歳まで一人暮らししてるからね。パリは特に、コンビニもないし。」

 ジャリーラも交えて、この日は英語で会話をした。彼女は飲酒はしないが、洋子は、蒔野が持ってきた赤ワインを開けて一緒に飲んだ。

 何を話したのだろうか? ジャリーラが聞き知っていた日本について。彼女の今後のパリでの生活のこと。蒔野のギタリストとしての日常。そこからまた始まった、彼の幾つかの滑稽譚。……そうするうちに、ジャリーラの表情にも、少しずつ笑みが寄りつくようになった。

 洋子とは、会話の中で、自然に視線を交わした。寛いだ雰囲気で、彼女も少し疲れた様子だったが、誰の何のためというわけでもないようなその美しさは、そのために、却って意識された。もう長いつきあいであるらしい食卓のシャンデリアは、幾分、皮肉めかして、その皺一本ない額や高く澄んだ鼻梁、やわらかく光を押し潰す下瞼といった、彼女の麗質の細部に光を灯している。

 彼女の優しく自分を見つめる瞳が、どんな秘密を隠しているのか、蒔野にはわからなかった。一週間待って、どんな答えが導き出されたのか。ジャリーラは大体、自分のことを、どう説明されているのだろう? バグダッドで、洋子から借りたCDを聴いたと言っていたが、その友達が、たまたま遊びに来ているとでも聞かされているのだろうか。

 マドリードでも、蒔野はずっと英語かフランス語かで喋っていたが、洋子と英語で話すのは、改めて彼女に出会い直すような感覚だった。

 蒔野は、普段の会話はフランス語の方が得意で、英語だと、幾分、話が雑になりがちだったが、洋子はどちらでも構わない様子で、時折、合いの手を入れるように、さりげなく彼の言わんとするところを補った。

 彼は、幼い頃の洋子が、英語が話せないために、離婚した父親のソリッチと再会しても、会話が出来なかったという逸話を思い出した。英語は、「だから、一生懸命勉強した」と。—その英語で、今、話をしている。蒔野は、そう思うと、また少し彼女との距離が近くなったような気がした。他方で、彼女が、アメリカ人のフィアンセと愛を誓い合ってきたのもまた、その英語なのだったが。

 しかし、今日はもう、それどころではなくなってしまったと蒔野は感じていた。

 調律しながら、蒔野は簡単な楽器の説明をした。今日のコンサートの記憶が、脳裏を過っていた。忘れるべきだった。演奏が止まったところで、別に、カラシニコフで撃ち殺されるというわけでもなかったのだから。……

 ジャリーラを見つめながら、こういう時には、何を弾くべきなのだろうかと考えた。その眼差しが露骨すぎたのか、彼女は恥ずかしそうに目を逸らして、頬を赤らめて洋子を見遣った。かわいいなと蒔野は感じた。本当にまだ、女子大生のようだった。

 自然と、耳の奥で音楽が鳴り始めて、彼はギターを構えた。そして、ヴィラ=ロボスの《ブラジル民謡組曲》の中から〈ガヴォット・ショーロ〉を演奏した。

 五分半ほどの質朴なあたたかみのある曲で、蒔野は、ソファで足を組んで、寛いで演奏した。ガヴォットだから、元々は二拍子の踊るための曲だが、蒔野は、幾人かの親しい友人たちが、ゆったりと流れる午後の時間の中で、気軽な談笑に耽っている光景を思い描いた。そんなふうにこの曲を解釈したのは、初めてだった。

 彼自身が、最近の何か面白い出来事を語り始めたギターに、微笑みながら耳を傾けているような気分だった。相槌を打ちながら、まさかと驚いたり、神妙に聴き入ったり、へぇと感心したり。……ギターを手にした子供の頃、実際に彼は、そんなふうにいつも、ギターで「おしゃべり」をしていて、両親や親戚、隣近所の大人たちに面白がられていたのだった。

 あの頃は、ギターを弾くのが楽しかった。郷愁は郷愁だと、蒔野はいつものようにそれを振り切ってしまったが、もう二度と故郷に帰ることが出来ないかもしれないジャリーラは、その微かに入り交じった感傷に、むしろ胸を打たれたようだった。

 彼が音楽から想像した、その平穏な語らいの輪の中には、無論、ジャリーラも含まれていなければならなかった。これから亡命して行く先の人々との団欒。いつか再会が叶うかもしれない家族との団欒。—最後のハーモニクスの一音を、蒔野は、彼女を笑顔にさせるまじないか何かのように、稚気を含んだタッチで響かせた。

 簡易裁判で、退去命令が下されていたなら、目の前のこの若いイラク人女性は、恐らく殺されていたのだった。この先の世界のどんな場所にも、どんな時間にも、彼女は永遠に見つからない。二〇〇七年の人類という、刻々と更新され続けている巨大な構成員リストから、彼女の名前は抹消されてしまう。彼女の大学の先輩のように。他の数多のイラク人のように。

 その寸前で、彼女はそれを回避し、結局、世界そのものを変えたのだった。この世界は、ジャリーラという名の一人のイラク人女性が、存在しない世界ではなく、存在する世界として持続することとなったのだから。—そう考えて、蒔野は、自分が今、ここにいるという意識の根幹を強く揺さぶられた。そして、彼女のために駆けつけ、尽力し、こうして寄り添っている洋子を尊敬した。洋子もまた、イラクで、その世界からの登録抹消の危機に瀕していたのだった。

 食事を終え、食器を片づけるのを手伝ってキッチンに向かうと、洋子がデザートの準備をしながら、日本語で、

「もう少しいてくれる? コンサートもあって、疲れてると思うけど。」

 と尋ねた。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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